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裏山の散策が結構楽しいということ

大変な情勢になったものです。私自身、コロナという単語をを耳にした数ヶ月前には今の状況など想像できませんでした。私自身を含め友人・知人はもちろん、皆様も大変な思いをされているかと思います。耐え忍ぶ日々が続きますが、そんな環境だからこそ気づいたことの雑記です。

そもそも、私が東京から高知に移住した最大の理由は生活圏と隣接する自然環境に魅力を感じたからです。生活圏から10分くらいで手付かずの自然に飛び込める高知の環境に惹かれて移住を決心しました。

移住に際しては、周囲からさんざん「長野とか栃木とかじゃダメなの?」と質問されたのを覚えています。夫婦ともに関東出身(私が東京・妻が埼玉)なので当然かもしれません。有名な自然観光スポットが多数ある長野や栃木ではなく、イメージの希薄な高知にわざわざ移住するのが理解できなかったようです。

この点は「手付かずの自然」があるか否か、という点が非常に重要なポイントでした。現代において本当の意味での冒険的体験に接する機会は皆無かもしれませんが、それでも人の手によって体験がデザインされているか、否かの違いは存在します。「ここに行ったら、これくらい」という想定から外れた、思いがけぬ感動に巡り会えることこそ高知の魅力だと思うのです。

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情報で溢れている現代において「1番」とか「日本最大」とか、比較できるものについては非常にハードルが高くなっています。「この滝わりと良い感じだけど日本で何番めなの?」って感じですね。情報が簡単に手に入るようになると、どうしても一番の場所に行きたくなる。ごく自然な感情でしょう。

コロナの影響で仕方なく散策していた裏山の環境は、どこかで見たことのある、当然1番でもない、ありふれたものばかりでした。それでも、身近にある未知のものを見つけたとき、確かに有名スポットで感じた以上の感動があるのです。これは「自分で見つけた」という実感が「どれほど感動するか」という感情に深く関わっているからなのでしょう。

「一番であること」「感動的であること」の間には、それほど強い相関関係が無いと、改めて考え直す必要があるように思います。

 

今後どのような情勢になっていくか見通せません。それでも身近なものに興味を向けることで、感動体験はいくらでもできる、ということに気づけたのはありがたいことです。日々あたりまえのように存在するものに、どれほど興味を向けるかということを少し意識するだけで日々の感動は大きく変わってくるのでしょう。

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